映画館
2004年4月14日私は映画が好きだ
勤めるようになってから、映画館に行く機会がめっきり減ってしまった。今では、ビデオを借りてきて見ることがほとんどである。ソファーでくつろぎながら、ゆったりと映画を楽しむのもよいが、映画館の暗い空間のなかで、息を潜めながら見る映画も楽しいものである。日本の映画館では、観客は総じて大人しく、声を出して笑ったり、手をたたいたりする者は少ない。感情を表に出さないことを美徳とする国民性によるのだろう。しかし、観客が感情を素直に露出し、他人である観客同士が共感しあうこともある。私が出くわしたのは、「黒猫・白猫」での拍手と「コーカサスの虜」でのすすり泣きだ。その感性が正しいかどうかは別にしても、同じ感性を持ったものがこの世に存在することを確認し、ほっとしたものだ。同じように知らぬ者が共感できる場としてスポーツ観戦がある。しかし、日本のサポーターたちは、ゲームの内容を楽しむことよりも、一体化することを一義としている。個人の価値観が先に存在することと、共有する価値観が先に存在することでは、大きく異なる。自己の関わる集団を愛するという大義のもとに、抑制していた感情を噴き出す様は、醜い。有楽町の映画館で、自然発生的にわき起こった静かな共感がフェードアウトしていく、心温まる経験であった。
勤めるようになってから、映画館に行く機会がめっきり減ってしまった。今では、ビデオを借りてきて見ることがほとんどである。ソファーでくつろぎながら、ゆったりと映画を楽しむのもよいが、映画館の暗い空間のなかで、息を潜めながら見る映画も楽しいものである。日本の映画館では、観客は総じて大人しく、声を出して笑ったり、手をたたいたりする者は少ない。感情を表に出さないことを美徳とする国民性によるのだろう。しかし、観客が感情を素直に露出し、他人である観客同士が共感しあうこともある。私が出くわしたのは、「黒猫・白猫」での拍手と「コーカサスの虜」でのすすり泣きだ。その感性が正しいかどうかは別にしても、同じ感性を持ったものがこの世に存在することを確認し、ほっとしたものだ。同じように知らぬ者が共感できる場としてスポーツ観戦がある。しかし、日本のサポーターたちは、ゲームの内容を楽しむことよりも、一体化することを一義としている。個人の価値観が先に存在することと、共有する価値観が先に存在することでは、大きく異なる。自己の関わる集団を愛するという大義のもとに、抑制していた感情を噴き出す様は、醜い。有楽町の映画館で、自然発生的にわき起こった静かな共感がフェードアウトしていく、心温まる経験であった。
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