私は物事にこだわらない大らかなO型でありたいと思うが、実情は、細かいことが気になる小心者である。バトンとなんてものをもらっただけで、「どうする、どうする?」と、サラ金のコマーシャルに出てくるオダギリ・ジョーのように打算的に悩んでしまう。まあ、そのように悩めることもネット日記の楽しいところである。
フェチかと聞かれれば、もちろんフェチであると胸を張って答える。フェチな人間は、秘めてフェチに没頭するだけでなく、その自分のフェチを誰かに聞いてもらいたいという願望をおうおうにしてもっており、フェチのことを聞いてくれるバトンなら喜んで答えよう。
私は生粋の匂いフェチである。残念ながら匂いは、見ることが出来ないが、想像力をかき立て、私の脳のなかでイメージとして再構築することも出来るはずである。しかし、さらに残念なことに、匂いはイメージ化が比較的難しい刺激である。確かに薔薇の香りというように言葉として表すことが出来るが、それでは全ての薔薇は同じ香りになってします。そのため、ソムリエなどは、文学的表現の助けを借り、ワインの複雑な香りを表現しようとする。薔薇にしろ、ワインにしろ、その対象から五感を経て私が受けたものを統合したものをクオリアというらしい。さらに小難しいことを言うと、クオリアは感覚的クオリアと志向的クオリアに分けられ、五感を経て私の中に入った感覚的クオリアは私の脳の中で志向的クオリアとしてイメージ化されるらしい。フェチとは、ある特定のものを対象として、そこから励起されるクオリアを楽しむ趣である。私の匂いフェチの対象は、食べ物、自然、人間、はたまた動物と、広い。しかし、なんといっても人間を対象とした性的な匂いほど、私の情動を刺激するものはない。食べ物、建物といった文化的な匂いは、私の大脳の浅い部分で反応し、感情を振るわせることはあるが、情動までは刺激できないのだ。性的な匂いは原始的刺激なのである。
さて、その匂い、もちろん視覚的刺激と一体化することにより、私をより強く刺激するものであり、その絶好の視線は後ろからの視線である。後ろから相手を軽く抱きしめ、耳の後ろから始まり、うなじ、肩、腋の後ろと降りてくる。匂いを嗅ぎつつ、目で楽しみつつ、キスをする、これほどの刺激を受けながら我慢汁でパンツを濡らさないなら、その人は一度病院で見てもらったほうがいいであろう。もちろんこれが楽しめるのは、最近の女性がみなキャミソールなるものを着るようになったおかげである。
ちなみに、小さい頃から足の速かった私は、リレーではいつもアンカーであった。
フェチかと聞かれれば、もちろんフェチであると胸を張って答える。フェチな人間は、秘めてフェチに没頭するだけでなく、その自分のフェチを誰かに聞いてもらいたいという願望をおうおうにしてもっており、フェチのことを聞いてくれるバトンなら喜んで答えよう。
私は生粋の匂いフェチである。残念ながら匂いは、見ることが出来ないが、想像力をかき立て、私の脳のなかでイメージとして再構築することも出来るはずである。しかし、さらに残念なことに、匂いはイメージ化が比較的難しい刺激である。確かに薔薇の香りというように言葉として表すことが出来るが、それでは全ての薔薇は同じ香りになってします。そのため、ソムリエなどは、文学的表現の助けを借り、ワインの複雑な香りを表現しようとする。薔薇にしろ、ワインにしろ、その対象から五感を経て私が受けたものを統合したものをクオリアというらしい。さらに小難しいことを言うと、クオリアは感覚的クオリアと志向的クオリアに分けられ、五感を経て私の中に入った感覚的クオリアは私の脳の中で志向的クオリアとしてイメージ化されるらしい。フェチとは、ある特定のものを対象として、そこから励起されるクオリアを楽しむ趣である。私の匂いフェチの対象は、食べ物、自然、人間、はたまた動物と、広い。しかし、なんといっても人間を対象とした性的な匂いほど、私の情動を刺激するものはない。食べ物、建物といった文化的な匂いは、私の大脳の浅い部分で反応し、感情を振るわせることはあるが、情動までは刺激できないのだ。性的な匂いは原始的刺激なのである。
さて、その匂い、もちろん視覚的刺激と一体化することにより、私をより強く刺激するものであり、その絶好の視線は後ろからの視線である。後ろから相手を軽く抱きしめ、耳の後ろから始まり、うなじ、肩、腋の後ろと降りてくる。匂いを嗅ぎつつ、目で楽しみつつ、キスをする、これほどの刺激を受けながら我慢汁でパンツを濡らさないなら、その人は一度病院で見てもらったほうがいいであろう。もちろんこれが楽しめるのは、最近の女性がみなキャミソールなるものを着るようになったおかげである。
ちなみに、小さい頃から足の速かった私は、リレーではいつもアンカーであった。
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