違和感の正体が、あまりにも自然な文体であることに気づいたのは読後数日経ってからである。突拍子もない話が展開する道筋が、「するり」と抜けてゆく感触が気に食わなかったのだ。そこには現実との対称性も見えず、読者である私が現実に置いてけぼりにされたような感じがした。
 非日常的な空想話が小説に織り込まれることは、神話に始まり、そう珍しいことではない。現代でも、ロシアや南米の文学では多用されているし、それらの文学を特徴づけるもののひとつでもある。そしてこの空想への導入において、神話がそうであるように、いくら人工的な空想でも突然現れては困るのだ。小説の本筋に関係なくとも、空想にだって永い歴史があり、その流れのなかで成長してきたはずで、その流れを読者に感じさせるのが、空想を取り入れるための味噌であると信じている。
 しかしである、この小説では空想がごく自然に、当たり前のように流されるのである。それが私の感じた違和感である。言い換えれば、彼女が持ってきた空想の世界が彼女にとってより現実味があり、性器的な煩わしさに満ちた現世は彼女にとって書くに値しないということか。この逆転は新鮮であり、この小説の主題となっていることを加えておく。

 ちなみに、あの蓮實重彦さんは、この自然な流れを「なだらかなあられもなさ」と指摘し、彼女の文学的才能を絶賛している。まあ、個人個人が違った感想を持つのが文学の楽しさなので、彼の評論への違和感をとやかく解明するつもりはないし、必要もない。

 さらに言えば、私は新しいDiary Noteのデザインに違和感は感じていない、いや、むしろ好きなぐらいである。

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