ヒミズ

2012年6月26日 映画
かなりディープな古谷実の原作漫画が、園監督の手にかかって、どんだけ凄いのになってるんだろうと、胸をわくわくさせながら見てきた。
なんだ普通じゃん。前作の「冷たい熱帯魚」と次作の「恋の罪」が、かなりエキセントリックな作品だっただけに、肩透かしをくらった気分
作風は北野武作品に似ており、もしかしてカンヌを意識したのかなとも
バーバーのアダージョに浸りながら、若者の未来にほっとする
あのままカルト路線を突き進んでもらい、目指せホドロフスキーもよかったのに
次作の「希望の国」は、題名からもわかるように、さらに普通になってるらしい
ちなみに、普通、普通と書いたけど、他の園作品に比べてとのことで、NHKしか見ないような人たちを不快にさせるだけの毒は十分残ってます

はじまりの記憶

2012年6月18日 映画
テクニックとセンスに満ちた芸術作品は人を黙らせる
ここで言う、テクニックとは美を再現する力であり、センスとは他の作品と識別される要素である。
テクニックだけでは心の無い写真と変わらず、センスだけではマスターベーションに成り下がる
もちろん、そのようなキッチュな作品が好まれるケースもあり、絶対に両者が必要だとは言えないが
両方があるにこしたことはない
この映画を見るまでよくわからなかったが、この人の作品は両者がバランスよく練り込まれており、芸術の王道と言えよう
こりゃ、ニューヨークの画壇で売れるわ
ただ、そのセンスが古今東西の借り物の知恵の上に立っており、それが鼻持ちならない

例えば、放電をフィルムに写し取り、無機的な電気で有機的な生物のようなパターンが形成されるのは不思議とあるが
有機体である生物は無機である元素でできており、それら無機物が進化のなかで決められた空間構造を保つことで、我々は生きている
福岡伸一流に言い換えると、分子がエントロピーを抑えた動的平衡状態にあるため、我々は生きている
無機と有機の二元論ではなく、有機は構造であり
放電により作られたフラクタル構造は擬似的な有機体に見えるかもしれないが、それはあくまでテクニックによる偽物でありセンスは芽生えない
彼の作品を見て、ずっと引っかかっていたことである

8 1/2

2012年6月15日 映画
現代芸術はわかりにくい
その作品をどうして作ったかという説明的な部分が抜け落ちていたり、不親切であったりするからだと思う
そもそも、かれらクリエーターは言葉などという不完全なものを使うことを嫌い、考える前に、おれを感じてくれとくる
イタリア映画界の巨匠、フェデリコ・フェリーニも、その手のクリエーターである
この映画も支離滅裂であり、「人生はお祭りだ、一緒に楽しもう」とくる
でも、この監督さんは好きだ
それは、彼の映画が面白いからではなく、彼の映画のセンスに感じるものがあるからだ
それが何かは言葉にできないが、センスを共有するのは楽しい
数年前の映画だが、どこで見たのかたんと思い出せない、内容はしっかりと憶えているのに
これは先日書いた、金沢21世紀美術館のビデオ作品同様、かなり過激な内容を含んでおり
コンサバな人たちの受けは悪い
なぜ過激な内容が含まれているかというと、死刑廃止という解決できない難題を扱っており、難題にはそれ相応のものをぶつけてみました感がある
いわゆる、「目には目を、歯には歯を」戦術である
どちらかと言えばコンサバな死刑賛成者たちに、この戦術が有効であったかどうかは怪しい

蜂蜜

2012年1月11日 映画
見ていてスカッとする映画もいいが、観ているときはよくわからなかったが、あとあと思い出すたびにじわじわと良さがわかってくる映画もいいものだ
いつも私は、このような作品をスルメと呼んでいるが、まさにこのトルコ映画「蜂蜜」はスルメ中のスルメである
そしてスルメ作品の良さというものは、一言で表すのがとても難しい
ああでもない、こうでもないと思い返しながら思案していくうちに、自分の中でじわじわと何かが化学反応を起こしながら、変わっていくのがわかるのだが、それが何であるかはやはり掴みどころがないのだ。それに、変わっていくのは、私の個人的な体験なので、それを良さとして他人に押し付けるわけにもいかない
でも、好きなシーンを挙げることはできる
深い森の中で、父を失った少年が切り株にもたれかかり眠っている最後のシーンは秀逸である。父なる森で、まるで切り株に守られながら眠っているように見える。持てるものは必ずいつかは失う、しかし、それは形に見えないが必ず残されたものの心に存在しつづけるだ。
スザンネ・ビアの新作である。前作がハリウッドものであったため判りやすい作品になっていたが、再びスウェーデン映画に戻って、割り切れない映画になっている。そう、人生には割り切れないことが多々ある、机上の哲学が高尚な論理でわれわれを諭そうとも、教会が崇高な教えでわれわれを導こうとも、われわれは現実世界では迷える羊なのだ。
他人の悩みに付き合う余裕なのないはずなのだが、この監督さんの作品を見ると、なんとなくがんばろうと思うのである。映画の力である
コマーショルのようなきれいな映像が延々とつづく、映像と映画の内容との関連にとまどっているうちに突然映画は終わってしまう、なんて書くと、小難しい映画と思われてしまうが、そうなのだ
カンヌのパルムドールを取っており、映画界の評価はすばらしい
小難しい作品が一般人に受けないのはよくあることであり、埴谷雄高の本はすぐ絶版になってしまう
さて、この映画、娯楽性はまったくないので、さっぱりしたいという人は決して見てはいけない
僕たちが何のため生まれ、そして死んでいくのかという、形而上の話題に興味がもてる余裕のある人は見てもいいかと
ただ、内容の多くにキリスト教的要素を多く含んでおり、米を食べてきた我々が理解するには、少し情報が足りないかも
逆に、西洋人の価値観を新鮮に感じられる素晴らしい作品だと言える

冷たい熱帯魚

2011年9月8日 映画
久しぶりの日記である、最後に書いたのが夏休み前の8月頭なので、ひと月ばかりご無沙汰していたことになる。
そのひと月ほど前、夏休み前の最後に見る映画は何しようかと悩んでいた。できれば人間賛歌の美しい映画をみて、さわやかな夏休みを過ごそうと目論んでいたが、いつもお世話になっている名画座でこの映画をやっていて、真逆の選択に
一言で要約すれば、悪い奴がいるということを丁寧に教えてくれてる映画である。この手の映画、そんなこと知ってるよと嘯いていても、いつもいつもワクワク見てしまう。「お~、世の中にはこんな悪い奴がおんのか~」と感嘆しながら。
その手の才能では、園子音監督、世界のタランティーノ、北野武、コーエン兄弟に並んだんじゃないの。
さて、これらの監督の悪い奴らが殺す相手の順番は大体決まっている。最初は、罪はないが決していい奴でもない人、あるいは単に運の悪い人が、そして徐々に悪い奴が殺され始め、そして最後には仲間割れが起きて、一人か二人が生き残ったところでやっと警察が現れる。う~ん、悪い奴らの映画の形式美だね、そこに僕はワクワクしてしまう。
新作のヒミズが今から楽しみだ
原作を読んでから映画を見たため、どうしてもその軽さが気になった
文学に答えはないため、百人百葉の読み方がある。映画で見せてくれるのは、その中のひとつの読み方であり、それもかなりわかりやすい読み方である
イシグロが抑えた文章で言いたかったことは人として生きる喜びとは何かという根源的な問いであり、そんなもの幾つかのシーンで答えられるほど単純なものではない。複雑な対象を単純化して理解できるのは人の持つ素晴らしい能力であるが、単純化していいものといけないものがあるのだと思う。他人の人生は、その人がどんな人であったとしても、あまり単純化すべきではないと信じている。
コーエン兄弟の作品が人の心の悪をうまく描いていると書いたが、正確には、アメリカでの人の心の悪をうまく描いているである
アメリカ社会は共和制なので、悪が何であるかは君主(伝統)が勝手に決めるのではなく、みんなが悪と言ったら悪なのである。そんな悪にはマリファナに代表される小さな悪から、ビン・ラディンのような大きな悪まで。小さな悪など、みんなが表で悪と言ってるから一応悪というカテゴリーに入れられているだけであって、実情はかなりのグレーゾーン。さらに、大きな悪だってアメリカ社会が勝手に決めた悪なのであって、もちろん場所と時代によっては正義のヒーローになりもし、要は勝てば官軍ということで、悪だっていつヒーローになるかわからない
前振りが長くなったが、コーエン兄弟はヒーローを描かせてもピカイチである。そして、アメリカのヒーローと言えば保安官であり、ウェスタンにコーエン兄弟が挑戦。どんな事情があったのか知らないが、あまりにも万人受けする作りになっており、コーエン兄弟よ、お前もついに悔い改めたかと心配しちゃったよ。
ちなみに僕のなかでは、コーエン兄弟はかなりのヒーローである
人の心の悪を描かせたらコーエン兄弟に勝るものはいないだろう
そんな彼らが、今度は真面目なやつを主人公にして映画を撮った
この真面目な主人公、本人は善良な市民であろうとし、それなりに順風満帆な人生を歩んできたつもりである
それが、奥さんから離縁を突きつけらたのをきっかけに、つぎつぎに不幸に見舞われ、落ちてゆく
それこそ、ローリングストーンのごとく、ころころと坂道を
そして、ことあるごとに、人の道まで踏み外しそうになるのだ
そう悪の道に、ということでやっぱり悪の映画である

他愛ない内容なのに、コーエン兄弟の手にかかると、それはそれは良く練られている絵巻物になるのが不思議だ
脚本と演出って大事なことを実感
ちなみに、今回私が気に入ったのは、怪しい説話を展開するラビたち、そのいい加減さというか、世俗的なのがたまりません
ミヒャエル・ハネケは、この作品でも人間の負の部分である「やましさ」を扱っている
「やましさ」だけで一本の映画ができるんだと感心するとともに
「やましさ」が個人のなかで消化できず、話しをややこしくしていることを滑稽にも感じる
人間、ごめんなさいと言える強さが大切である、弱い犬ほどよく吠える
テーマが斬新かというとはなはだ疑問ではあるが、「白いリボン」がそうであったように、人間の触れられたくない部分をここまで映像化して白日にさらすという手法は彼にしかできないもので、特筆すべきものであろう
中年に差し掛かりすっかりふくよかになったジュリエット・ビノッシュ、ポスト・カトリーヌ・ドヌーヴ確定か

白いリボン

2011年6月23日 映画
うがった見方をすれば世の中、欺瞞と悪意に満ちていて
さらに近代国家では、それらが正義と公平の毛皮をかぶって表通りを我が物顔で闊歩しているから、余計に質が悪い
なんて考えを映像化することに腐心しているミヒャエル・ハネケ監督
後味の悪さ満点で、ニヒルと言えばなんとなくかっこいいが、悪趣味と言えなくもない
キリスト教世界の、人は生まれながらにして原罪を背負っているという概念に通じているのかは不明
カンヌでパルムドールを取った作品なのだが、私のなかではまだ評価定まらず
はまる人ははまってしまうが、万人受けしないこだわりの監督さんと言えば、イギリス人のテリー・ギリアムやアメリカ人のウェス・アンダーソンあたりが思い浮かぶ
そして、これらこだわりの監督さんのもう一つの特徴として、作品数が多くないことが挙げられる
自然、同じ作品を何度も観ることになる、しかし、こだわって作りあげているだけあって、何回みても楽しいのだ。
逆に言えば、一回見ただけではその良さはわからない
そんななか、何度見ても美しく、その映像の虜になった作品にジャン=ジャック・ベネックス監督の「ディーバ」がある
とくに後半、怪我をした主人公が匿われる海岸沿いの隠れ家の灯台が素晴らしい
世話をしてくれるベトナム系の少女、白いシトロエンⅡCV、そして朝焼け、ひとつひとつの美しい要素を積み重ねながら物語は進んでいく
ひとつひとつの要素に意味はあまりないが、それらが連なることで強力なイメージを放ち始める
映画の楽しみ方を僕に教えてくれ、美しきものに目覚めさせてくれた

トイレット

2011年4月27日 映画
作家にしろ、映画監督にしろ、独自の世界観を持っている人は強い
そして、彼らにはコアなファンがつく
この作品の荻上直子の世界観は独特であり評価も高い
そのきれいな映像、親しみやすい音楽(今回はベェートーベンのピアノソナタ)、心温まるストーリー、荻上ワールドの大切な要素である
この三つの要素に食事が加わって、彼女の世界は完成するのだが、その食事、グルメでもない、日常のソウルフードが取り上げられることが多く
今回は餃子、餃子と言えば中国がオリジンだが、焼き餃子は立派な日本の家庭料理でもある。でも、日本人はどうして餃子の皮を自分で作らないんだろう、そしていつかは自分たちで包みすらしなくなり、冷凍餃子を買ってくるようになるのだろうか
 この作品、男どもはどうしようもない生き物だから、川の底で「中の下」の生活をするしかない女たちはがんばるぞという人生讃歌。がんばるって苦手なんだけど、こうも堂々とがんばると言われると、どうしようもない生き物である私でも少しは心揺さぶられ、変な社歌のメロディーを口ずさんだりして、明日からは一生懸命働くぞなんて柄にもないこと考えたり。
 この「中の下」が「下」では無いところが味噌なのだ。下の生活の不条理にはがんばりようも無く、押しつぶされるのが落ちだからだ。格差社会で二極化が進んでいるなどと言われながらも中流神話がまだまだ続く日本なのだ
 「マルコビッチの穴」というアメリカ映画がある。さえない中年のおじさんが、中途採用された会社の壁に、マルコビッチという男の脳内に通じる穴をみつけ、云々という映画である。この穴、これほど非日常性を表すのに適した道具はないと信じており、お気に入りの言葉である。そもそも、この会社、階と階の間にあって、そこへ行くには階と階の間という中途半端な場所でとめたエレベーターから這いずりながら潜り込むしかない。そんなシュールの場面から映画は始まり、これから起きるとんでもないことを予測し、思わずにんまりとしてしまう。ちょ~変化球な作品なのだ。

キャタピラー

2011年2月8日 映画
戦争は不条理である
殺す側にとっても、殺される側にとっても
さらに言えば暴力も不条理である
ふるわれる側にとっても、ふるう側にとっても
でも戦争も暴力もこの世からなくならない

この映画は、社会派監督の若松孝二が撮ったこと、主演の寺島しのぶがベルリン国際映画祭で最優秀女優賞を取ったことで話題になった
見る前はおどおどしいのではと心配していたが、そんなことはない。田舎ののどかで清々しい景観が変わらぬものとして観ているものをほっとさせてくれる
不条理を感じさせるには言葉も説明も必要ない、ただおこった出来事を静かに描写するとともに、そのときどきの登場人物の気持ちを出来事に被せることが大切である
寺島しのぶ演じるシゲ子の気持ちは痛いほど伝わってきた、だから最優秀女優賞をとったのだろう
でも、暴力をふるう側でありながら芋虫となってしまった久蔵は欲望に取り憑かれたモンスターとして描かれており、その気持ちを伺い知ることはできなかった、これは残念である
不条理の世界では、狂っている熊さんが一番まともに見えるというアンチテーゼに救われた

この映画を見る前から戦争が不条理なのは知ってた。でも、私たちはこの不条理を絶えず繰り返し受け入れなくてはいけない、戦争がこの世からなくなるまで
最近、映画づいている
観たいという好奇心があるのは良いことだ、大切にしよう

神戸育ちの私は、京都にはアレルギーと憧れの入り交じった複雑な感情を持っており、ずっとずっと気になってる
そんな京都を舞台にした青春映画、ということでこの映画ずっとずっと気になっていた
京都を舞台にした青春映画と言えば、パッチギ!というストレート系の名作があり、どうしても対比したくなるのだが
この作品、オニ、チョンマゲなど笑いのエッセンスが満載の脱力系で、あまりにもの違いに比較のしようもない
どちらかと言えば、みうらじゅん原作の色即ぜねれいしょんのその後のような作品に
表現が適切かどうかわからないが、みうら作品がオナニー映画なら、この作品はポスト・オナニー映画に
観終わったあとに、青春っていいな〜って素直に感じられたということは、変化球系ではあるが、いい青春映画である証である

パプリカ

2011年1月18日 映画
今敏というアニメーション映画監督さんがいた、昨夏がんで亡くなってしまった
下積みが長く、残された長編作品は三作のみで、これからが楽しみな監督さんだったのに
恥ずかしながら、私も追悼上映で彼のことを知ったくちで、あまり語ることはできないのだが
最新作のパプリカを見て、こんな素晴らしい監督さんのことを今まで知らなかったことを悔やんだ
現実と夢とが交錯する狂気の世界を、コミカルに描く
目指すところは違っても、そのスピード感は初期のころの夢の遊民社を彷彿させる、要は作品が元気なのだ
元気な作品は元気を与えてくれる、そんな彼の新作がもう見られないのはほんとに残念だ

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