この作品は、対照的な愚直な兄と安直な弟のお話である。小さい頃から平衡状態を保ち続けてきた彼らの対称性は、ある出来事をさかいに、ほころび始める。お互いにシンクロしながら逆位相をとり、それは運命をつかさどるDNAの二重螺旋が決して交わることがないように、ゆれ続けるのであった。そして、唐突に終幕が訪れる。交わることはなくとも、解けるはずはないと信じていた二重螺旋があっけなく離散するのである。そして弟は自らの干渉による結末に無常を感じずにはいられないのだ。

 さて、この作品を鑑賞していて不可解なことがひとつある。
それは上で触れている「ある出来事」と「自らの干渉」の関係であり、このことについては謎のまま終わっている。私は、この不可解さがかえって作品によい効果をあたえているような気がした。ただ、完結するストーリーを期待する観客にはもやもやをもたらすこととなる。
 前作の「蛇イチゴ」がとても気に入り、早くに次作が上映されないかと期待しときながら、劇場へ足を運ぶ終いとなっており、やっとDVDをレンタルして見ることができた

この文章はとてもわかりずらい
わかりやすく書けばこうなる
彼女の前作「蛇イチゴ」がすばらしい作品だったため、その次回作も楽しみにしていた。しかし、劇場で見る機会を逃し、DVDをレンタルしてやっと見ることができた。
わかりやすいとは、情報が整理されたためであり、ようは「楽しみにしていた次回作をやっと見た」ということが伝わればいいのである。
しかし、最初のわかにくい文章の2文目と3文目を続けて読むと、「期待しときながら劇場へは足を運べなかった」という違うストーリーが見えてくる。人の人生とは、わかりやすい情報だけでは見えてこないもろもろのことに包まれているのである

ゆれる

2007年5月30日 映画
 カンヌで話題となっている河瀬直美と、この監督西川美和の作品は好対照だと思う。どちらも登場人物が少なめのドラマを淡々と描きながら、演出にとことんのこだわりをみせる。河瀬が人の自然な心、陽をひもとこうとするならば、西川は人の心の闇、陰にライトを当てようとする。しかし、陰と陽、この二つは独立に存在するのではなく、必ず共存しているところが人生の妙である。
 先般の日記で触れた「合唱ができるまで」と、同じ2004年の同じフランス映画。同じ年に、同じ国で、同じく合唱(コーラス)をテーマにした映画が二本も撮られていたなんて、なんか不思議な気分。
 しかし、映画の雰囲気は大きく異なる、「合唱..」のノンフィクションに対し、これは完全なフィクション。そして、音楽に真摯に向き合ったお堅い映画と、ドラマ性に富んだ娯楽映画、日本文学でいえば芥川賞と直木賞というところか。ただ、芥川賞は純文学でと直木賞は大衆文学と言われているが、どちらでもいいような微妙な作品もあることはあるのだ。しかし、この二つの映画、その柔らかさで大いに違うことでは譲るところがない。それほど違うのである。

ナイロビの蜂

2007年1月22日 映画
ひさびさの休日は映画でも観よう!
劇場で見そびれ、ずっと気になっていたこの作品を

私は、この映画の予告編を見ていたため、勝手に映画のイメージを描いていた
雄大なアフリカの自然に比べれば人の命なんてちっぽけなものよという、仏教思想に似た刹那的なテーマがあると
だから、きっとラストシーンは、フラミンゴのピンクで画面が塗られていくのではと
これは、私の勝手な妄想であるため
妄想と違ったからといって、映画に文句を言うつもりはない
切ないという点では、刹那的であった
しかし、やはりそこは人間中心のテーマを扱った恋愛ものであり、社会派であった
邦題がこんなんだから、勘違いしてしまったのである
さて、私の一番気に入ったシーンは、アフリカでの主人公の庭弄りシーンである

嫌われ松子の一生

2006年11月20日 映画
 子供ができて映画に行けなくなったなどと書きながら、しっかりと映画館へ足を運んでいる。大らかな妻に感謝。
 さて、先日楽しんだ映画は「嫌われ松子の一生」、この監督さん、全作の「下妻物語」が好評だっただけに、予算もば〜んと付き、さらにキャストも使い放題。これで評判の悪い映画に仕上がってしまったらどうしようと、胃が痛くならなかったかと、いらぬ心配を。
 この映画、評判は人によって大きく別れるようだが、私は素直に2時間を楽しめたのでよしとしよう。子供のことから解放され映画を見ることのできた嬉しさが効いていたのかもしれない。
カンヌで「ある子供」と評判を分けあった作品
そして、同時期のヴィム・ヴェンダースの作品「アメリカ、ある家族の風景」とほぼ同じテーマ、プレイボーイの独身男が見ず知らずの息子を捜すお話である
ジム・ジャームッシュらしい簡潔な映像と台詞、映画のミニマリズムと言えよう
じつは、私は映画を見終わったあとも、ずっとこの映画のことを考え続けている
「大切なのは現在なのか?」「息子は誰なのか?、その息子には会うべきなのか」などなど
ジム・ジャームッシュの映画は、見終わったあとも、このようにああでもないこうでもないと考えてしまうのが楽しみなのだ

蛇イチゴ

2006年9月15日 映画
派手さはないものの、ものの造りがしっかりとしているものは、気持ちがいい
なんでも鑑定団の中島先生がおっしゃるところの、「いい仕事してますね〜」である
この邦画「蛇イチゴ」は、とてもよく出来ている
脚本、配役といった土台部分がしっかりしているため、映像のちゃちさなんて気にならない
さて、この映画の主役と言えば宮迫である
彼はしょうもない人間を演じさせたら日本一の俳優であろう
この蛇イチゴでのいい加減なお兄さん役も、
下妻物語での情けないお父さん役も
たまらなくしょうもないのである
彼のしょうもない演技のおかげで、しょもなくない映画に仕上っている

花とアリス

2006年9月10日 映画
 小さいころはとても涙もろい子供だった。それも歳とともに泣く機会が減り、今ではすっかりご無沙汰である。しかし、涙のつぼはまだ健在らしく、ときどきどっぷりとつぼに嵌るものと出会うことがある。それは夏目漱石や野田秀樹であり、そして岩井俊二である。
 この岩井俊二の映画「花とアリス」は、優しい音楽と映像に彩られた美しい映画に仕上がっている。そして主人公二人による、若くて青いお話に、おじ様の心はぐっときてしまうのである。そう、ずっと昔は自分も青くて馬鹿だったなと。ノスタルジーの涙である。
 あのヴィム・ヴェンダースの作品である。彼は、20年前に、パリ・テキサスやベルリン天使の詩などとっても評判のよい作品を何本か撮っており、彼の新作が出るとついつい見に行って、そしてがっかりするのである。この作品も全体に締まりがなく、かっての作品に見られたオーラもない。さて、この作品の見所ではなく、聴き所は音楽であろう。特にたるそうに流れてくるギターがいい、音楽の担当はT-Bone Burnette、そのたるいギターはMarc Ribot、このメンツたちはCassandra Wilsonの今年出たアルバム ”Thunderbird"にも参加しており、とっても評判がよろしい。映画中に、そのCassandraのボーカルが流れたような気がし、エンドクレジットの中に彼女の名前を探したが見つけることは出来なかった。あれは勘違い!?こういう出会いがあるのも、映画を見る楽しみの一つである。

ある子供

2006年6月7日 映画
人にとって信じられないことが起きることがある。小説のような現実と言えばいいだろうか。もちろん私にもそのような体験はあり、あまりの状況のひどさは、頭を白くし、思考する力さえ奪ってしまう。
 カンヌでパルム・ドールを取ったこの作品「ある子供」を見たときの脱力感は、そのときの感覚に似ている。主人公のあまりにも無責任で幼稚な行動、主人公の涙に絆される彼女の優しさと弱さ、それら全てにインチキさを感じてしまう自分。しかし、この感覚は不思議なもので、映画を見た数日後、私の中で何か違うものとなって残っていた。それは形も、匂いも、色もないが、たしかに小さな固まりのようなものとして私のなかに残っていて、ふとしたことがきっかけでその存在を思い出す。全ての苦い記憶とともに。
 メキシコを代表する女性画家、フリーダ・カーロの伝記映画である。フリーダは本国メキシコでも、映画化されているが、本作はアメリカ人によるアメリカ人のための映画である。いわゆるリメーク版とも言える。SAYURIが日本の文化からinspiredされたアメリカ映画であり、私は純粋なアメリカ娯楽映画として楽しんだように、メキシコ人はこの映画をどう思っているのだろうか?などと要らぬことを考えながら見始めた。しかしである、感動した!我が国の総理ではないが、感動が想像力のない言葉となってそのまま口から出てきた。
 自由で、私は私という彼女の強くも脆い生き様に感動してしまったのだ。彼女の土着的な作品に愛着が湧かなかった私であるが、トロツキーの「それは君の個人的な絵かもしてないが、そこに描かれている苦悩を世界中の人に魅せるべきだ」的なセリフに感動し、悪くないかもと思い始めた。私は涙腺が弱くなったばかりでなく、人の考えに素直に従うようになってしまったようだ。

珈琲時光

2005年12月7日 映画
 人は、それぞれの嗜好というものを持っている。これは理屈では説明できず、他人に譲ることのできない原理に近い。そして、日常の時間は二つの時間に分けることができる、しがらみに費やす時間と、嗜好を満喫する時間である。食事の時間がどちらに属しているかは、人やその日の気分によって異なってくる。私の友人のえっちゃんなどは、飯を食うことに全く興味がなく、食事を点滴で済ませられるなら、そのほうがありがたいと、のたまっている。彼女の場合、飯の時間は完全にしがらみの時間なのである。生きるために、むりやり食べているというところか。私の場合は完全に後者であり、時間が許されるならば、毎日毎食、食事は嗜好の時間にしたいと願っている。究極の嗜好の時間は、作るところ、いや、食材を手に入れるところから、始まっている。それは、高級な食材でなくとも、特別な食材でなくとも、近所の八百屋で出会う菜っ葉で十分である。菜っ葉を物色しながら、八百屋のおばさんに最近の菜っ葉の出来を聞き、どう料理するかと思案する。生きるということは、このような嗜好を楽しめる空気や間を持つことだと信じている。
 前置きが長くなったが、小津の世界では、しがらみと嗜好が交錯する人間模様が描かれている。その世界では、どちらかといえば”しがらみ”が勝っていることが多かった。そして、小津映画の現代版であるこの映画、台湾は候孝賢監督の「珈琲時光」では、時代が変わり、すっかり嗜好が優先する世界が描かれている。人が自由に嗜好に走ることができるようになった平和を実感しつつも、人は社会の中で生きていく限り、しがらみかを完全に切り離すことはできないことを。それが生きるということであろう。しがらみの小林稔侍か、嗜好の浅野忠信、あなたならどちらに共感を?もちろん、私は両者に共感した。
 さてさて、墓参りのシーンで蓮見重彦氏の姿を見つけた。映画好きにとって、嬉しくなり、ニヤリとする場面である。つまり嗜好の瞬間である。
 もう20年も前の話である。東京に出てきて最初に親しくなった女の子は東急の二子多摩川線沿いに住んでいた。自然、彼女とのデートは渋谷が多くなり、地方出身の私に渋谷の街の色々を見せてくれた。彼女は大学の同級生で、映画好きであることが親しくなるきっかけであり、自然、彼女とのデートは映画が多かった。淡い恋心を抱きながらも、親しい友だちの関係を越えることもなく、そんな関係が一年半ほど続いたが、お互いに彼と彼女ができたことで自然消滅していった。
キッシュなる食べ物を知ったのも彼女とのデートであり、今だにキッシュを見ると彼女と見た映画のことを思い出す。さて、そんな彼女と見た映画の一つが「ミツバチのささやき」、知る人ぞ知る、ビクトル・エリセの静かで熱い作品である。映画の中には、言葉にして多くを語るべきでない映画というものがある。言葉にした途端、その感動が流れてしますような、この映画はまさしくそういう映画であった。だから、映画を見た後、彼女とカボチャのキッシュを食べながら、映画については何もしゃべらなかった。

ディーバ

2005年7月29日 映画
 この映画は私にとって一番思い出深い映画である。初めて劇場で見たフランス映画であり、映画にのめり込むきっかけとなった作品である。 当時高校生だった私が、この映画を見にいった経緯は思い出せないが、たしか友人に誘われたのだと思う。極東の港町に住んでいた私が、フランスという海の向こうの遠い文化に触れ、なんてすばらしい世界があるのかと感動した作品である。思えば、その少し前から、自己否定の延長として、海外志向が強くなった私は、20世紀の世界文学を貪るように読み、海外への旅立ちを夢見ていた。カミュ、サルトルに始まり、グラス、ゴールディングを経て、遠くマルケス、ボルヘスへ飛んでみたり。そんな少し厭世気味だった私に、喜怒哀楽の仕方を教えてくれたのが、この映画だ。頭でっかちだった僕が、現実を生きる喜びに目覚めたのだ。現実からの逃避ではなく現実に向き合うようになった私は綿密な親元脱出計画を練り、晴れて大学生から東京で独り暮らしを始めた。東京に出てきてから最初に出来た彼女とは、この映画が好きなことで意気投合し、それがきっかけで付き合うようになったのだ。

ハング・オン

2005年7月20日 映画
 ハング・オン、hang onという言葉を教えてくれたのは大藪晴彦の小説、汚れた英雄である。中学生のころ、あこがれの大人の世界を象徴する言葉であった。しかし、私が初めて二輪にまたがったのはずっと先のことで、大学生になってからである。それまで、周りにはバイクに乗っている人もおらず、夢は夢のままであった。大学生になっても、貧乏学生の私にとってバイクなど手が届かない贅沢品だった。3万円ほどの風呂なし共同トイレのアパートで生活していた私にとって、いかにして満腹になるかが毎日の関心事であった。そんな大学二年生の夏、友人が中型バイクに乗り換えるというので、彼の50ccのバイクを譲ってもらった。50ccでも私にとっては初めてのバイクであり、オートマのスクーターとは大きな違いであった。バイクをもらった当初は、用もないのに街にふらりと出かけたものだ。夜の表参道や青山通りを、タクシーに遠慮しながら、走っていく。少し遅いバイクデビューながら、夜の東京で風を切ることに夢中になった。そのときに思い出したのがカーブを曲がるときのハングオン、しかし、勇気のなかった私にはそんなことは夢のままで、自分では体を振っているつもりでも、写真で見ていたオートバイレースにおけるハングオンとは大違いであった。そのうち、私の興味は、他のもろもろのものへと移っていき、バイクも処分してしまった。しかし、自転車でカーブを曲がるときに、膝を直角に曲げ自転車ごと内側に倒しながらハングオンとつぶやく癖だけは、いまだに残っている。

蘇える金狼

2005年7月19日 映画
 映画はいろんなことを教えてくれる。私より上の世代ならば、東映任侠映画の高倉健や鶴田浩二が、さらに歳が上ならば、日活の石原裕次郎や小林旭が、大人のかっこよさを洟垂れ小僧に教えてくれた。僕の世代のそれは角川春樹の映画である。角川春樹は、角川映画社を設立し、マスコミを使った派手な宣伝、新しいスターの発掘など、一世を風靡したものである。しかし、映画会社を設立する前から、制作者として東映映画に関わっていた。そのなかで私が好きだったのは、松田優作主演の大藪晴彦原作の映画である。かってのスター同様、松田優作演じる主人公には反社会的要素があり、中学生のお子様が見るには少し刺激的であり、親が眉をひそめたくなる映画であった。神戸の場末の映画館へ、二本立てで上映されているのを見にいったものだ。近くには、県立の大きな図書館があり、本好きの僕はそこにもよく通ったものだ。図書館では品行方正な中学生を、映画館では少し不良の中学生を、演じ、昼の顔と夜の顔を持つ大藪ワールドの主人公になったつもりでいた。今から思えば、単なるおませで頭でっかちな中学生でしかなかったのだろう。
先日、この映画の主人公、奥崎謙三が死んだ
 自分が理解できないものに出会うと、それを断固拒否する人と、それに興味を示し、どうして理解できないのかをわかろうとする人がいる。人々が理解できない対象として、この奥崎謙三ほどうってつけのものはない。現在のドンキ・ホーテなのである。その支離滅裂な思想、型破りな行動、何をとっても簡単には理解できない。彼の人生にそって考えれば理解できるのではと期待し、彼の生い立ち、戦争体験、終戦後の生活に関する情報を集めた。そうすると、どうして彼が反天皇思想に傾いたのかを理解することができるが、やはり、彼の型破りな行動を説明するのには十分ではなく、狂っているという印象をぬぐうことはできない。
 私は神戸出身者であり、この狂人になんどか接する機会があった。選挙のたびに立候補し、汚い字でスローガンが書かれた車に乗り、叫び続けていた。洗練されたという言葉に一番遠いものを見た気持ちである。普段なら、一瞥をくらわし、無視すればいいのだが、彼の場合はそうはいかない。それほど印象が強いのである。彼のその強烈な印象すべてが計算されたものであり、目的のためへの確信犯であるという話がある。彼は狂人であることを演じきったのか、それとも歴史が生み落とした狂人か、それはもうわからない。ただ、彼が、自分の理解できないものに出会うとそれに断固拒否する人であったことは確かであろう。

オランダの光

2005年7月3日 映画
 オランダの光というものがあるらしい。私はこの映画を見るまで知らなかったが、フェルメールやレンブラントの絵に描かれている光である。光があれば必ず陰影があり、また、光は永遠ではなく拡散しながら減衰しやがては失くなってしまう。そんな光の映像を集めた、静かながらも熱いドキュメンタリー映画である。オランダ絵画とともにこの映画の軸となるのは、人造湖の上にある堤防から定点観測された映像である。日付のナレーションとともに、四季を通じて堤防の景観が移ろいでいく様を見せてくれる。これは光にこだわった映画であり、光の表象を美術や景観の中に見いだしていくのである。ややもすれば抽象的になりがちなテーマを、圧倒的な量の素材を通して、オランダ人らしく真面目に論理的に読み解いているところに二重丸。いい加減なフランス人にはこの仕事はきっと無理だろうなと、オランダ人だからこそできた作品にひたすら感心。

父、帰る

2005年6月17日 映画
 幸田文の小説を連想させる題名、父親が絶対で頑固なこと、その父が最期に亡くなってしまうことは共通している。しかし、基本的にはなんら関連はない、あたりまえか。
 昨年見た映画の中で一番印象に残っている作品だったが、見た直後は、あまりにもの興奮に、冷静な映画評を書く気にもなれなかった。言葉にした途端、私の甘い思いが俗っぽい感傷になりさがってしまうのではないかと疑い、言葉にすることをためらっていた。それほど私の心に強く迫る映画であった。それは、私の父がやはり絶対的であり頑固だったからか。

 この映画のすばらしいところの一つとして、映像のすばらしさが挙げられる。登場人物の心象をみごとに映像化しており、水平、垂直へと自由にそれでいて自然なカメラモーションのおもしろさ、さらに空間や光をうまくつかった絵画のような静止画、コマーシャル映像のような美しさ。新鮮である。タルコフスキーとの比較は真摯な映画ファンの眉をひそめるかも知れないが、タルコフスキーから退屈さを引きその重厚さを十分の一にまでスリム化し、これも時代の流れかと納得。
 しかし、なんといってもこの映画は私の個人的な想いを刺激しまっくったのである。小さい頃、あんなにかわいがってくれていた優しかった父。いつも自転車の後ろに私を乗せて、釣りに連れていってくれた父。大きくなるにつれ、その優しさは厳しさへと変わっていった。それは、彼が私の中に自分を見たのではないかと思ってる。成長する私の中に頑固さが芽生えるとともに、私の頑固は彼の頑固とぶつかり合うようになったのだ。しかし、家庭の中では、彼は絶対的であり私には我慢する以外どうすることもできず、そして、その鬱々とした思いは私を映画少年へと駆り立てていったのだ。

 やはり、これは俗っぽい感傷かもしれない。

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